「私たちは呼びかける──9条改憲の是非を問う国民投票に主権者として向き合おう」


昨年5月3日に示された安倍首相の「9条改正提案」以降、「改正発議⇒国民投票」に向かう動きが強まり、近い将来、日本初の国民投票が実施される可能性が高まりつつあります。こうした動きについて賛成する人もいれば、「改正発議阻止」「国民投票反対」といった声をあげる人もいます。

護憲・改憲の立場からではなく、民主主義、国民主権、立憲主義を尊重する立場から、「改正発議⇒国民投票」に向かう動きを日本国民はどうとらえ、どう行動すべきなのか。それについての考えをまとめました。

主権者・国民へのアピール
「私たちは呼びかける──9条改憲の是非を問う国民投票に主権者として向き合おう」(2018年3月30日)

国政選挙と国民投票は本質的に異なるもの

主権者である自分に代わって法律を制定・改正したり国の予算を決めたりする代表者を選ぶのが国政選挙であり、立法権は国民に選出された国会議員が有し、行政権は国会議員が指名する首班が組む内閣が行使します。「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・・」(日本国憲法前文)という文言は、こうした国政の基本的な仕組みを指しており、これを間接民主制と呼んでいます。

これに対して国民投票は、主権者である一人ひとりの国民が、ある事柄の決定を議員や閣僚といった代表者に委ねることなく、自身の投票によって直接その決定を行うもので、こうした仕組みを直接民主制と呼んでいます。国民の多数意思が直接、立法や行政に反映されることを保障する制度、それが国民投票なのです。

このように、国政選挙と国民投票は異質のもので、例えば、イタリアやリトアニアのように、多くの主権者が選挙では原発に肯定的な党や候補者に投票しても、国民投票では「原発反対」に投票するといった事例はよくあります。

諸外国においてはこうした国民投票を、「憲法」はもとより「軍隊」「独立」「同盟」「国歌・国旗」「禁酒」「原発」「離婚」「同性婚」などさまざまな事柄をテーマとして、中世から今日まで2530件以上実施していますが、日本では戦前戦後を通してまだ一度も行われたことがありません。その、私たち日本国民にとって誰もが未経験の国民投票が、近い将来実施されようとしています。しかも、戦争・軍隊に関わる「憲法9条」という重要なテーマで。

民主主義の観点から国民投票を考える

こうした「9条改憲」の動きに護憲派は反発し、安倍政権打倒を打ち出しつつ[9条改正の発議⇒国民投票]を阻止する運動を盛り上げる構えを見せています。主権者としてそうした運動を起こすことには合理性があり、私たちはその運動自体を批判するつもりはありません。ただし[9条改正の発議⇒国民投票]が阻止されたとして、それが解釈改憲によって侵されている立憲主義や国民主権の回復につながり、「9条と自衛隊・日米安保」の矛盾解消に役立つのかというと全くそうではありません。単なる発議・国民投票阻止は、欺瞞的な解釈改憲を固定化し、主権者の判断・選択を立法府や行政府に汲ませる機会を奪うだけです。

私たちは、それがどういう項目であれ、改憲の是非を国民投票で決めることについては反対しないし、憲法96条に盛り込まれたこの直接民主制を否定しません。ただし、発議され国民投票にかけられる改正案の内容が、意味のある議論を生まないものであったり、投票に伴うルールが諸外国の実施事例と比べて低劣・不公平なものであれば、その発議、その国民投票には反対します。これは国民投票制度そのものの否定ではありません。

ところが[9条改正の発議⇒国民投票]の阻止を訴える護憲派のなかの一定数の人たちは、そうではない考え方をしています。彼らは「ルール(国民投票法)に不備がある」から国民投票の実施には反対だと主張しているのですが、実のところはたとえ不備がなくとも、あるいは不備を補ったとしても、国民投票という制度を活用することに後ろ向きなのです。その理由は、主として(自分はそうではないが)多数の国民は政府やマスコミに惑わされる無知で愚かな大衆だという愚民観と、自分が多数派になれない可能性があるうちは実施に反対し制度そのものを否定するという姿勢にあります。

ルール(公職選挙法)に明らかな不備があっても、自分たちが多数票を得られないことが事前にわかっていても、選挙という制度は否定せず参戦するのに、国民投票という制度は前述のような理由をあげて「衆愚になる」「税金の無駄遣い」だと否定し反対する。これが、スイス、イギリス、フランス、イタリア、アイルランドといった国々の「民主陣営」と日本のそれとの大きな違いです。

言うまでもないことですが、私たちは、日本国民が諸外国と比べて、政治的な物事を理解し判断する能力が劣っているとは考えません。むしろ、日本国民が(国民投票によって)国家意思を直接最終決定する権利をまだ一度も行使したことがないことが、この国の民主主義と国民主権の深化と広がりを滞らせていると考えます。

多数の人が愚かな投票、選択をしてしまう可能性は、間接民主制の選挙であれ直接民主制の国民投票であれ常にあります。その可能性がある間は選挙も国民投票もやってはいけないというのは民主主義というものをわかっていない人の言うことです。

民主主義というのは、民主主義=人権擁護、民主主義=反戦平和、民主主義=反原発というように常に[=]の等式記号で結ばれるものではないのです。日本を含め各国の人々が選挙や国民投票という民主的な手続きをとったうえで人権抑圧をしたり侵略戦争に突入したりすることは歴史の中で少なからずありました。それでも私たちは選挙や国民投票という制度を活用しながら、自分たちの過去の非を改め、少しでも賢い選択をする努力を重ねるしかないのです。

民主主義は衆愚政治になるからだめだなどというエリート主義者の主張は、根本的に間違っています。そういうエリートも含め、誰も愚行をするリスクを免れていないからこそ、民主主義が必要なのです。国民が自分たちの愚かな失敗から学んで、それを是正し政治的に成長していくための制度が民主主義だからです。日本の知識人、言論人によくみられる「衆愚観に基づく国民投票の否定」は決して正当なものではありません。

 解釈改憲に終止符を

財務省幹部らによる森友学園をめぐる決裁文書改竄の発覚で、日本国民の多くが「改竄」に強く反応して安倍政権と財務省を批判しています。にもかかわらず、自民党はもちろん立憲民主党も含めた9割以上の国会議員が「自衛隊は9条で保持が禁じられている〈戦力〉ではなく必要最小限度の〈実力〉であり合憲だ」とするこの「欺瞞」に対してはほぼ無関心です。

戦力不保持・戦争放棄が9条の本旨なのに、戦力としての自衛隊を保持し日米安保という軍事同盟を結んでいることについて、それが矛盾しているとは思っていない。だから、多くの国民が9条は改めなくていいし自衛隊もこのままでいいと考え、「解釈改憲」を容認しているのです。こうした矛盾放置の皺寄せは現職の自衛隊員や沖縄県民に及び、彼らの人権・生命や生活が脅かされ損なわれる事態になっています。自民党は今週25日に開かれた党大会で、戦力不保持、交戦権の否認を謳った「9条2項」を削除するいわゆる石破案を抑え込み、安倍総裁の意向を汲む9条改正案の素案を発表しました。

※現行の第9条全体を維持した上で、その次に追加する。
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第9条の2
(第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
(第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

その案の中身は、現行憲法の9条2項(戦力保持を禁じ交戦権を否認)には触れず、新たに[9条の2]として自衛隊を(戦力とは記さずに)「実力組織」として保持することを明記するというものです。このような改正案を憲法96条に則って発議し国民投票にかけて承認されたとしても、それは明文改憲の手続きを踏んだ究極の解釈改憲であり、前述の矛盾や欺瞞を解消するものにはなりません。また、賛成少数で承認されなかったとしても、同じく、現状の解釈改憲状態が正されるわけではありません。どういう投票結果になっても、「戦力」「実力組織」の意味をめぐって、国民投票後も「憲法神学論争」が延々と繰り広げられるだけで、国民投票を行う意味がありません。立法府がこうした改正案を発議して国民投票を実施することは制度の濫用であり、私たちは明確に反対します。

ただし、解釈改憲に終止符を打ち、矛盾や欺瞞の解消につながる改正案の発議であるならば、その是非を問う国民投票の実施には積極的に賛成します。解釈改憲に終止符を打つ改正案とは、要するに「戦力保持」及び「自衛戦争」の可否について、主権者が(国民投票で)明確な意思表示を行い得るもので、その多数意思を憲法や法律に反映させてこそ、解釈改憲に終止符が打たれ、立憲主義と国民主権が回復すると私たちは考えます。

さまざまな9条改憲案の提示と議論を

護憲派から、「安倍政権の下では、改憲は認めない」という主張も、最近よく聞かれるようになりました。これは自分たちの支持する政治勢力が政権を取った暁には、自分たちが正しいと思う方向での改憲をしてもよいという含意をもちます。もしそうなら、安倍政権打倒を叫んで政権交代をめざしている人々には、自分たちがこれならいいと考える改憲案を、まさに今、国民に提示して説明する責任があるはずです。政権を取る前は「憲法に指一本ふれさせない」と主張しておきながら、政権を奪取したら自分たちの好む改憲を進めるのは、国民を騙す不公正な政略で、民主主義の精神に反します。

この際、(現在の自民党の改正案の素案とは違って)国民投票にかける意味がある9条改正案を政党や団体、市民グループなどがいくつも打ち出し、旺盛な国民的議論を巻き起こすことを呼び掛けます。

9条2項を削除して戦力保持、交戦権を認めるといういわゆる「石破改正案」や、同じくそれ(戦力保持、交戦権)を認めると同時に自衛権の制約も明記する「護憲的改憲案」など、いろいろな改正案が提示されることを批判するのではなく歓迎し、大いに議論しましょう。

憲法96条の規定では、衆参各院で改正案に賛成する議員が総議員の3分の2以上賛成しなければ[改正発議⇒国民投票]はできませんが、衆議院なら100人、参議院なら50人以上の賛成者がいれば憲法改正原案の国会への提出はできます。提出されれば意見が戦わされ、たとえ改正発議に至らずに終わるとしても、立法府で徹底的な議論がなされるということです。当然、そうした議論に呼応する形で、院外での公開討論会なども頻繁に行われるようになり、家族や友人とそのことを話題にする機会も増えるでしょう。そうした動きを通して、多くの国民が案件への関心を高め主権者としての自覚を強めていくのです。

主権者・国民のみなさん、国民投票は日本国民がデモクラシーという集団的自律を生きるために、戦争、軍隊、安保など何らかの争点について早晩引き受けるべき、一つの歴史的試練だと私たちは考えています。一人ひとりの日本国民が、主権者としてこの試練に真正面から向き合おうではありませんか。

伊勢﨑賢治、井上達夫、今井 一、堀 茂樹