[立憲主義と国民主権を確保するために、主権者・国民がとるべき道]
連載第2回(全3回)
[Q.4]なるほど、けれども、必ず反対多数となって違憲の安保法制に「NO」を突きつけることになるならいいですが、賛成多数となれば、主権者・国民が違憲の安保法制を認めたことになりますよね。そのリスクがある限り国民投票はやらずに選挙で政権交代を実現させる方がいいと思いませんか?
[答]安保法制の是非を問う国民投票で反対多数になる可能性と、次の国政選挙で現政権の議員・候補者が少数派に転落する可能性と、どちらが高いでしょうか。それは、間違いなく前者です。すでに、新聞・週刊誌などで、今夏の参院選の予測記事が出ていますが、野党の選挙協力が成功したとしても、半数のみ改選の参院選で、選挙後に自公などの現政権勢力が少数派に転落する可能性はかなり低いです。自分の希望と現実とがごちゃまぜになってしまい客観的な状況認識ができない人には理解できないでしょうが、これが現実です。
安保法制の是非一点のみを争点として国民が選択・投票する国民投票と違い、選挙では、年金、景気対策、医療・社会福祉など様々な政策テーマについて、投票権者が総合的に判断して投票します。報道機関各社の世論調査では安保法制に反対するという人が今でも6割以上いますが、その人たちの中で、選挙になれば自民党や公明党の候補者に投票する人は少なくありません。しかしながら、もし選挙と同時に国民投票を実施すれば(そういう人たちは)選挙では自民党、公明党の候補者に投票するけど、国民投票では「反対票」を投じるという選択をすることができます。
2012年、リトアニアでは、国会議員選挙と同時に「原発建設」の是非を問う国民投票が行われました。この時、「反原発」を掲げて選挙に参戦したみどりの党の候補者は一人も当選しませんでしたが、国民投票では彼らの訴えに賛同する人が多数を占め、原発建設に反対する票が65%に達しました。主権者のこうした投票行動は国内外でよくあること。選挙では賛成派の政党・候補者に投票しても住民投票、国民投票では反対票を投ずるといった例は数多あります。最近では「特別区の設置=大阪都構想」での住民投票とその半年後の市長選、府知事選をめぐる、大阪市民・府民の投票行動が典型的です。選挙と住民投票、国民投票とは違います。一つの案件(安保法制とか原発とか)のみの主権者の意思を確認し行政・立法に反映するのは、選挙より住民投票、国民投票のほうが格段に適しているのです。
リトアニアの国民投票。投票用紙と投票所。
例えば、次の参院選で、私の住む大阪において、民主党や共産党が「安保法制廃止」の一点で合意し選挙協力をして候補者を一本化し、それを安保法制廃止のために行動する市民連合などが推すとしましょう。解釈改憲によって成立した安保法制は違憲だから立憲主義と国民主権を侵していると考えている私は、当然、その候補者に投票することになります。ただし、その候補者がもし「原発の再稼働」「辺野古の基地建設」について反対するという明確な約束をしなければ、私は投票することを躊躇します。ましてや、原発再稼働、辺野古の基地建設に賛成だというならば、たとえ「安保法制反対」 だと言っても、その候補者には決して投票しません。結局、棄権もしくは白票を投ずるということになるでしょう。何十もの案件に関する政策・姿勢が自分の考えと一致しないと投票しないということではありません。たった3つ「原発」「辺野古」「安保法制」です。この3つは譲れません。
でも、もしその3つに反対するという候補者が誰も立たなくても、(リトアニアのように)参院選と安保法制の是非を問う国民投票とが同時に実施されれば、私は、その国民投票には必ず参加し「反対票」を投じます。それだけではなく、友人や仲間、近所の人々に対して「反対票」を投ずることを強く勧め求めます。
議席獲得数で負ける可能性が高いという現実に触れないまま、「選挙協力さえすれば勝てる」と言い張り、突き進むのではなく、主権者・国民の意思を正確につかみ、それを行政・立法に反映させるために安保法制の是非を問う国民投票を実施すべきです。「民主主義をまもれ」「立憲主義まもれ」と叫ぶ人たちは、なぜそう言わないのでしょうか。民主主義は選挙という間接民主主義だけではなく、住民投票・国民投票という直接民主主義もあるのを知らないか、知っていて無視しているかのどちらかです。
連載 第3回に続く
◆9条瀕死の主たる理由は、歴代政権が進めた再軍備のための解釈改憲を国民の多数が9条を支持しつつ「大人の知恵」だと黙認してきたことだ。それを理解し、立憲主義と国民主権を確保する道をとるべしその歴史や理由を詳細に解説。今こそ理解して戴きたい。メールを下さればサイン本をお届けします。info.ref.jp@gmail.com