中日新聞のA記者から、大阪の5.17住民投票について取材を受けた。
記者は、憲法9条改正の是非を問う国民投票に強い関心を持っていて、今回の大阪での住民投票から学び、生かせることはないかという質問をしてきた。
一昨日の東成区民センターでの、賛否両派の「勉強会」と称する公開討論会を傍聴し、改めて確信したことがある。それは、論敵は(住民サービス、二重行政etc.)どんな事柄にせよ相手に具体的な説明を求め、抽象論に終始したり曖昧な説明であった場合、徹底的にそこを突いてくるということだ。
護憲派は、日常的に自民党の改憲案を批判しているが、もし2016年に、自民党案がベースになった「9条改正案」の是非を問う国会発議が実現し、日本初の国民投票が実施されることになれば、改憲派は護憲派に対して、討論会などでこう追及してくるのは間違いない。
「9条は改正せず、このままの条文でいいとあなた方は言うが、このままだと、憲法上、自衛戦争は認められるのか?自衛のためでも戦争はしないということになるのか? 戦争をしないのなら、〈いつ、どのような条件で降伏するのか? その帰結として日本国は、自分たち日本人はどうなるのか?〉このことについて、明確に答えてほしい」
これに答えられないなら、国民投票での勝敗は明らか。9条の会、共産党など護憲派が、本気で自民党案を葬り去りたいと考えるなら(発議要件の衆参各院3分の2の議席をとらせないと叫ぶだけではなく)、この回答の準備をすべきだ。しかしながら、彼らはそんなことは露ほども考えていないだろう。
因みに、〈いつ、どのような条件で降伏するのか?〉という一節は、江藤淳が1980年に書いた『1946年憲法──その拘束』に記されている。 彼は35年も前にその問題点を把握していたということだ。
護憲派の人たちは、安保法制で外堀を埋められ、いよいよ「9条国民投票」の可能性が高まって来たというのに、切迫感に欠けている。もしくは、何を準備すべきなのかについて、思考停止。真剣に学び、考え、動こうとしているようには、とても思えない。