【「イギリスでのEU国民投票から学ぶべきこと──日本での改憲発議に絡めて」(その1/全3回)今井一(ジャーナリスト)
「(EU離脱という)愚かな選択をした」
「もう一回投票をやり直してほしい」
投票結果が出た後、イギリス国内では一部の「残留派」からこうした声が噴出した。
日本でも同様の発言をする学者や評論家がいるが、彼らの中には現地へ行き「離脱」に投票した人の意見を聞いたわけでもないのに、「民主主義に反するもの」「こんな国民投票はやるべきでなかった」「3年前の選挙の際、実施を公約にしたキャメロン首相が悪い」としたり顔で言う人もいる。だが、私はそうした意見には同意できない。
古代ギリシアの「民衆」を意味する「デモス」と「権力」を意味する「クラティア」を組み合わせたものが「デモクラティア」(民主主義、人民主権)の語源であり、今回の国民投票はまさにそれを具現化するものだった。仮に「EU離脱」が賢くない愚かな選択であったとしても、民主主義に反していることにはならない。間接民主主義であれ直接民主主義であれ、愚かな決定は民主主義にはつきものなのだから。
また、今回の国民投票はキャメロンが党首を務める政権与党(保守党)内のEU離脱派議員(約4割)の不満を押さえ込む狙いもあっての実施だった。それも承知の上で、国民投票で決着を図ったことを私は肯定したい。その理由は3つ。
[1]イギリスはECに加盟した2年後の1975年に「EC残留」の是非を問う国民投票を実施しているのだが、あのとき以上に「EU残留」に対する懐疑心が充満している今日、こうした特別に重大な案件ついて直接国民に是非を問うのは当然だ。
[2]キャメロン×ジョンソン(前ロンドン市長)に代表されるように、政権与党が「残留・離脱」で真っ二つになっている状況で、議会や政府が「残留だ」と言い続けても多くの国民は納得しない。
[3]離脱派、残留派を問わず、国民の多数は「国民投票での決着」を支持している。
今回の国民投票の争点は移民流入、雇用・労働、景気・経済、農業・漁業、外交・安保等々いろいろあったが、結局多くの有権者が選択のポイントとした事柄は次の3つ。
- 急増するEU移民を拒むか否か
- EU離脱による経済的リスクを抱えるか否か
- EUのさまざまな規制を甘受するか否か
- ポーランド、ハンガリーなど東欧諸国の「EU市民」のイギリスへの流入がこの数年で急増し、その多くが工事現場や工場などで働いている。EU域内における人、物、カネの自由な移動を認めるEUのルールがある以上、イギリスもこれに従わざるを得ない。キャメロンら残留派は「移民の労働力はイギリス経済や社会保障の支えになっている」と説明したが、首都ロンドンはともかく地方都市の有権者の理解を得られなかった。一方、ジョンソンら離脱派は「移民増加によって医療や教育などの公共サービスにかかる金が増大し財政を圧迫している」という宣伝を繰り返し、労働者の中には仕事を移民に奪われているとか低賃金で働く彼らのせいで自分たちの給料も低く抑えられていると考え、彼らに対して「嫌悪、憎悪」の感情を抱くようになっている人もいる。今回、労働党が「残留」に投票という方針を明確に示したにも関わらず、支持者の相当数が方針に背いて「離脱」に投票したのはそういった理由からで、残留派敗因の一つになった。
- 経済については、離脱すると対EUへの輸出に1兆円近い関税がかかるようになり、外国企業の撤退を招く。それが失業者を増やし景気を悪化させるのは目に見えていると残留派は「離脱リスク」を声高に説いたが、離脱派はEUとの新たな貿易協定を結べば問題ないといなした。有権者の中にはリスクを承知で「離脱」に投票した人も少なくなく、それほど「移民の増大」や「EUによる規制」が嫌だったのだ。
- 離脱派が終盤戦で多用したのが「TAKE BACK CONTROL」(支配権を取り戻す)というキャッチフレーズだった。イギリスの主権がEUのさまざまな規制、ルールによって侵されている。離脱することによってそこから解放されイギリスらしさを取り戻そうというこの呼びかけはかなり効いた。
23日の投票日を挟み8日間ロンドンに滞在した私は、両派の集票活動を直に見聞きする中で、両派の色合いの違いを感じた。
投票日の3日前、離脱派のボランティア運動員が行なった戸別訪問に同行した。ジャマイカ出身ジョイさんと地元で生まれ育ち地方議員をしているルーシーさんは共に60代。劣勢が伝えられるロンドン市内で少しでも票を獲得しようという思いから連日戸別訪問を重ねていた。事前の了解などとることなく近所の家を次々と訪ねる。時折「私は残留」というシールがドアに貼ってある家があるのだが、そんなことはお構いなし。躊躇なく家のドアをノックする。そして出てきた人に対して「離脱に一票を」とPR。中にはキツイ返しをする人もいるのだが、彼女たちはめげることなく戸別訪問を続けた。その姿は実に逞しく、熱い情熱を感じた。
一方、残留派の運動として一般的だったのは、繁華街でのチラシやシール配布。これをやってるのはたいていは若者で、みんな[I’M IN]と書かれたTシャツを着ている。身のこなしがスマートで爽やか。何となく知的な雰囲気を醸し出している。投票日の2日前、そんな感じの女性運動員に高齢の男性が近づき話しかけた。やがてそれは詰問調になるが、女性運動員は言い返すこともなく戸惑い顔で立ち尽くす。そして男性が立ち去るや彼女は突然泣き出した。
今回「残留派」に多いのは、大都市住民、高収入、高学歴、若者で、「離脱派」はその逆だという調査結果が複数の機関から発表されている。先ほどの女性が泣きやんだ後に話を聞くと、彼女は建築士で前述の4つの条件にすべて当てはまっていた。つまり「残留派」の典型なのだ。
穏やかに道理や理屈で説得し票を獲得しようとした残留派に対して、離脱派は「EUからイギリスの主権を奪い返そう」という感じで、相手の心、感情に訴えかける傾向があったように思える。そして、今回は離脱派が多数を制し、その意思が政策決定に反映されたのだが、それはそれだけのことであって、「離脱という選択が正しかった」と証明されたわけではない。だが民主主義的な手続きがとられ、主権者の国家意思として「EU離脱」が決定されたことは間違いない。